寝屋川グラウンド(京阪グラウンド)

寝屋川グラウンド(京阪グラウンド)
 
こちらの記事で書きましたとおり、現在まで調べられた範囲で近鉄ラグビー部(近鉄ライナーズ)が、前身の大軌(大阪電気軌道)時代に行った一番最初の試合は、まだ会社から正式承認されていなかった昭和4年1月20日に大毎(大阪毎日新聞)Bチームと行った試合ですが、この時の会場である「寝屋川グラウンド」を紹介したいと思います。
 
大正後期から昭和初期のラグビーの会場として、よく「寝屋川」という表記が見られます。当時、寝屋川には他に目ぼしいグラウンドが無く、この京阪電鉄の寝屋川グラウンドであることは間違いないと思われます。

「その頃のグラウンドは大高、京阪の寝屋川、阪急の宝塚、奈良の春日野などが一流処」(近鉄ラグビー50年史」P.2)ということで。当時の一流処のグラウンドのひとつであったようです。
 
この「寝屋川グラウンド」は通称で、正式には「京阪グラウンド」です。
現在の寝屋川市豊野町に大正10年(1921年)に京阪電鉄が4万9,500平米の土地を入手し、翌年、陸上競技場を建設、続いてテニスコート4面と野球場(寝屋川球場とも呼ばれた)を完成させ、一大スポーツ公園を作りました。
 
現在は住宅地になっていますが、現在でもこの地に記念碑があり、校区の小学校では授業でこのグラウンドの存在を紹介しています。
 
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(後年建てられた記念碑)

野球場のほうは野球の歴史にも関係して多くの方がインターネットでも書かれているようですが、陸上競技場のほうの詳細はあまり知ることが出来ません。文献もあまり残っていないようです。
 
その陸上競技場で多くのラグビーの試合が行われました。
 
■歴史
 
大正初年頃に香里園開発の事業の一つで、現在の大阪聖母女学園のある場所(ラグビーで有名な同志社香里高校の近所)に、「香里運動場」が作られました。
大した設備は無かったものの、人寄せに植えた桜が成長して行楽客を集め、また北河内郡の連合青年団対抗競技や郡内の小学校の運動会も行われました。

当時としては大阪近郊で有数の運動場で、野球・自転車競技・模型飛行機大会などが行われました。また大正2年にアメリカ艦隊が神戸に入港して、その水兵と同志社がここで野球の試合を行いました。
 
この「香里運動場」に替わるものとして、京阪電鉄1921年(大正10年)12月に大阪府北河内郡豊野村(現在の寝屋川市豊野町)に4万9,500平米の土地を買収し、翌1922年(大正11年)1月に陸上競技場を着工、同3月23日に京阪「運動場前駅」を臨時駅として開業、グラウンドの名称を「京阪グラウンド」と決定しました。

同年4月21日には陸上競技場が竣工し、翌4月22日(土)と23日にこけら落としとして朝日新聞社主催の第3回東西対抗競技大会関西予選大会を開催しました。さらに5月7日には第3回東西対抗陸上競技大会・府県対抗青年団リレー大会を開催します。
 
同年5月から野球場とテニスコートに着工し、同年8月末に完成。11月12日には京阪「運動場前駅」が常設駅となりました。

敷地の西側には野球場、東側には陸上競技場が位置しました。

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1929~1932年(昭和4~7年)頃の現寝屋川市域の地図。中央線路の右側に「ドンウラグ阪京」と明示がある。)
 
さて調べられる範囲でここで行われたラグビーの試合で一番古いのは、陸上競技場竣工の翌年、1923年(大正12年)11月11日午後3時から行われた大高商対京一商の試合で、8-0で大高商勝っています(「運動年鑑・大正13年」P.545)。 

この「大高商」とは大阪高等商業学校(大阪高商)で現在の大阪市立大学、「京一商」とは京都市立第一商業学校で現在の京都市西京高校です。
 
さて、その陸上競技場。「シリンダー式で排水にも考慮を払い、フィールドのほか、1周400米のトラック、100米の直線、200米のセパレートコースがあり、簡易ではあるが観覧用スタンドも設けられた。」(「鉄路五十年」P.161)という当時としてはかなり立派なものでした。

ラグビーやサッカーにも使用され、野球場も含め、全国的にもスポーツ界で「京阪グラウンド」あるいは「寝屋川グラウンド」と言えばすぐ分かるくらいになりました。
当時の大軌(現近鉄ラグビー部員も「一流処のグラウンド」と認めています。
 
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(開設当時の陸上競技場。後方にはスタンドと一部屋根が見える。)
 
 
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テニス場の写真だが後方に陸上トラックとラグビーゴールポストが見える。)
 
京阪電鉄ラグビー部はもちろん使用しますし、旧制中学・高専・大学チームの試合も行われましたし、名門同志社大もここで試合を行っています。更には昭和3年10月22日には英国艦パーウィック号チームと大阪外語のラグビー国際試合も行われました。
 
ラグビーシーズンには頻繁に使用されたようですが、昭和に入ると1928年(昭和3年)に甲子園南運動場、翌1929年(昭和4年)には花園ラグビー場が相次いで完成し、次第に関西ラグビー界の多くの試合は、それらのグラウンドで行われてゆきます。
 
特に昭和10年以降は手元の資料ではラグビーの会場として「京阪」「寝屋川」という記録がありません。

サッカーや陸上競技ではあるかも知れませんが、戦争が激化してゆく時代ですので、スポーツ自身がやり辛くなって行った時代です。
 
京阪電鉄は、遂に1942年(昭和17年)6月23日に野球場・テニス場も含め、住宅営団に住宅地として売却します。
 
取り壊された陸上競技場や野球場のスタンドは、隣接する集落である平池村などの民家へ払い下げられました。
 
近鉄はもちろんですが、阪急も宝塚・豊中・西宮というグラウンドがありましたし、阪神は甲子園南、南海は中百舌鳥というグラウンドがありました。しかし京阪はこの寝屋川のグラウンドが無くなってからは、戦後、関西のラグビーシーンに登場するグラウンドがありません。
 
しかし、後年、京阪沿線には高校ラグビーの強豪高が誕生します。大工大高(現常翔学園)、同志社香里高、啓光学園高(現常翔啓光学園)、東海大仰星高、京都まで行けば伏見工高などがあります。
旭区・城東区などの大阪市内の京阪沿線では昔から中学ラグビーも盛んで多くの名選手を輩出しています。
 
また戦後、この京阪グラウンドがあった場所の近所の保育園ではタグラグビーを教えていますし、同じく近所には府立高専があり現在でもクラブラグビー大会で多用されています。更に近所には大阪府警察の宿舎があり関西社会人Aリーグ2連覇の大阪府警ラグビー部の選手も住んでいました。
 
また同じ寝屋川市内のもう一つの「高専」と言われた私立の高専は現在ご存知の「摂南大学」ですし、1975年創立の寝屋川ラグビークラブ&スクールでは老若男女を問わずラグビーを楽しんでいます。
 
このグラウンドが原因ではありませんが、戦後、寝屋川をはじめ京阪沿線ではラグビーが根付いてゆきました。