旧西京極球技場

旧西京極球技場
 
「西京極」といえば昔から京都のスポーツの総本山とも言うべき運動公園で、現在では陸上競技(兼球技場)、野球場をはじめ体育館、プールという一大「総合」運動公園となっています。
 
1930年(昭和5年)からこの地で整備が始められ、1932年(昭和7年)には野球場やテニスコートが完成、1942年(昭和17年)には陸上競技場や水泳場が完成し、終戦後の進駐軍の接収を経て1946年(昭和21年)の第1回国民体育大会の中心会場となっています。
 
ラグビーでは、この陸上競技場を使って関西のラグビーの試合をこなしていました。古くは陸上競技場開設の1942年(昭和17年)に既に旧制高専大会(第18回大会)の京都東海決勝が同年12月6日に同志社高商と三重高農(現三重大学)の間で行われています。
 
1958年(昭和33年)に近鉄京都市役所・川崎重工(川重)・大阪府警・大阪鉄道管理局(大鉄局)の間で始まった関西社会人リーグでも、京都市役所がいるという事で第1回から西京極陸上競技場が使われ(11月9日近鉄対京都市役所)、以後毎年花園に並んで使われました。
 
この頃の西京極陸上競技場は現在の「西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場」と大きく異なり、観客収容数も少なく(1万人程度だったか?)最前列は高さ1mほどの塀を跨げば簡単にフィールドに入れました。スコアボードは北側サイドスタンドに前後半の得点だけのものがありました。
 
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(1968年の西京極陸上競技場のメインスタンド(写真上)と北側のスコアボード(写真下)(12月8日近鉄京都市役所より))
 
さて、この陸上競技場の南東には野球場が隣接して存在しましたが、南西にはスペースがあり、そこにラグビー・サッカーなどの球技専用の「西京極球技場」が1968年(昭和43年)に完成しました。
 
次の写真は年を追っての航空写真です。

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ある記録によると球技場完成が1968年の10月5日となっている資料もあるのですが、手元にある関西協会発行「昭和43年度Aリーグメンバー表」の主要スケジュールでは、次の通り9月29日(日)近大対同大、京大対関学大の2試合が西京極球技場(△印が球技場)で有料で行われています。更に翌週の10月6日(日)に京大対近大が球技場で行われていますので、「10月5日(土)に開場セレモニーなどが行われたが、ラグビー・サッカーなどの運用は既に行われていたのではないか」と思います。
このあたりは当時の新聞(特に京都新聞あたり)を調べれば分かると思います。
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いずれにせよ、この球技場の開場以降、関西ラグビーにとっても京都ラグビーにとっても京都地区の「ラグビーの拠点」が出来たようなもので、現在活躍中のラグビージャーナリストで京都の鴨沂高校出身の村上晃一さんもこの西京極球技場が花園と並んで憧れのグラウンドだったと書いておられます。
 
スタジアムとしては球技専用ですので陸上競技場よりずっと見やすかったでした。
メインスタンドは10~15段の席があり、中央には小さな小屋のような役員席・記者席がありました。
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(メインスタンド)
 
バックスタンドにも10~15段の席がありましたが、サイドスタンドは芝生席でした。
南側サイドスタンドの後方には低い位置ながら前後半の得点だけを示すスコアボードがありました。その後方スグには阪急電鉄京都線があり、阪急電車に乗っているとフィールドがよく見えました。
 
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(スコアボード)
 
 
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1975年時点での全体図)
 
全体として5000~7000人程度しか収容できませんでしたが、懐かしいスタジアムでした。
 
残念ながら、1983年(昭和57年)に京都国体に向けて取り壊され、1987年(昭和62年)同じ場所に補助陸上競技場が出来ました。
 
その後、京都のラグビーの舞台は1987年(昭和62年)に完成した宝ヶ池球技場に移ります。
 
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(奮闘する近鉄吉野一仁選手とフォローする今里良三選手・小笠原博選手。後方に見えるのが北側サイドスタンド。)
 
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(西京極メインスタンド北側で集合写真を取る三菱自工京都の選手達。1974年頃。)