橿原運動場と橿原公苑陸上競技場

橿原運動場と橿原公苑陸上競技
 
昨日2017年9月3日(日)にジャパンラグビートップリーグの公式戦で「橿原公苑陸上競技」が初めて使用され、地元近鉄ライナーズがNTTコミュニケーションズシャイニングアークスと対戦しました。
 
「橿原公苑陸上競技」でのトップリーグの試合自体も初めてですし、近鉄ラグビー部(近鉄ライナーズ)にとっても関西社会人リーグ時代での公式戦を含めても初めてだと思いますが、実はこの「橿原公苑陸上競技」と近鉄ラグビー部とは縁があります。
 
というのはこの競技場の前身である「橿原神宮外苑の総合運動場」がかつて同じ地に戦前から存在し、そこに戦後すぐに「ラグビー専門運動場」が出来、戦後直後に花園ラグビー場進駐軍に接収されて近鉄ラグビー部が使えなかった時代に、あやめ池グラウンドと同じく近鉄ラグビー部や関西ラグビー協会が多くの試合をこなしたといいます。
 
私の父も「戦後スグの花園を進駐軍に取られてた時は「橿原」とか「あやめ池」で試合してたんや。」と言っていました。
 
■昭和21年にラグビー専用として整備
近鉄ラグビー50年史」(1981)によると昭和21年に「橿原運動場」についての記述が見られます。
 
同書P.36には近鉄社内誌昭和21年6月号の転載として次の記述があります:
「扨(サテ)お馴染みの花園ラグビー場進駐軍の専門グラウンドとなり、聊(イササ)か淋しく感ぜられましたが、今回新しく橿原綜合運動場にラグビー専門運動場が作られ我々同好者に一光を与へられました。」
 
そして同書には当時の試合記録として次のような試合の明記がありますが、これらの会場はすべて橿原綜合運動場となっています:
4月13日 近鉄社内紅白戦 紅軍41-0白軍
5月11日 近鉄35-0天理外語
5月31日 近鉄12-5大阪瓦斯
9月21日 近鉄14-15大阪鉄道局
9月28日 近鉄32-5三重高農
(これらは同書に記録が残っているものだけで実際にはもっと多くの試合が行われたと思われます。)
 
また同書P.74の坂本正治氏の記述は次の通り:
「昭和20年9月に復員。同時に復職し、ラグビー部再建にかかる。花園は米軍のアメリカンフットボールの練習場として接収され使用できないので、あやめ池の貸しグラウンド、大、中、小の三つのうち第一運動場にポールを建て、ホームグラウンドに。また橿原陸上競技場にもラグビー場を造って当時の関西協会のスケジュールを消化する。」
 
さらに同書P.75の柘植平内氏の記述は次の通り:
終戦から昭和23年8月までは米軍が花園ラグビー場を接収していたので、橿原綜合運動場で練習したものです。今と違って、上六から一時間位かかって橿原へ行き。グラウンドも陸上競技場での雑草の生えたフィールドでの練習でした。
昭和21年秋、国民体育大会が橿原で行われてからは、ラグビーの練習も毎日橿原で出来なくなり、あやめ池遊園地の今の第一スポーツランドが当時農場だったのを、運動場に変更して、ここで練習を始めました。」
 
ここで国体を調べてみると昭和21年(1946)の第1回は京阪神で開催され奈良県橿原では自転車競技がこの陸上競技場で行われた記録があります。(橿原道場では相撲を実施。)またこの秋季国体の開催期日は11月1日~3日で、上記の柘植氏の記述と合致します。
 
つまり昭和21年の春に陸上競技場をフィールドをラグビー専用にしたにもかかわらず、11月の国体自転車競技が行われてからは毎日練習が出来なくなったということで、近鉄ラグビー部の主力練習場があやめ池に移った(戻った)ようです。
 
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昭和21年(1946)5月31日に橿原運動場で行われた大阪瓦斯戦の近鉄メンバー(「近鉄ラグビー部50年史」P.37)
 
 
 
■元々は違う場所
現在は橿原公苑は、橿原神宮の東側、近鉄橿原線橿原神宮駅から畝傍御陵前駅の間の西側に、南から北に向かって野球場(佐藤薬品スタジアム)、多目的広場、陸上競技場、体育館の順に並んでいます。

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県立橿原公苑公式ホームページ http://www.pref.nara.jp/10392.htm
 
橿原神宮自体は、神武天皇が「橿原宮」を築いたといわれる畝傍山の麓に、紀元2550年とされる明治23年(1890)に作られました。
 
当初は現在の位置より西側、橿原神宮の現在で言う「一の鳥居」(第一鳥居)から神橋までの表参道の北側、外拝殿や勅使館・斎館の東側の場所、即ち現在の森林遊苑の場所一帯に運動場があり、「畝傍公園」と呼ばれました。
 
竣工は大正15年(1926)です。この時、大軌(大阪電気軌道、現在の近鉄)も多額の寄付をしたと言われています。
 
次の図は右側が北の方角、赤矢印のトラックが運動場です。現在の橿原公苑は「外苑」と書かれたあたりです。
 
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奈良体育学会研究年報第 19 号(平成 27 年3月)「橿原道場」設立に関する一考察 -「国民統合」とスポーツツーリズム- 渡邉昌史(武庫川女子大学)p13  http://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=79993
 
 
■紀元2600年奉祝で現在の場所に
しかし、現在の橿原公苑陸上競技場とその南の野球場(佐藤薬品スタジアム)一帯が「橿原大運動場」として昭和10~20年に橿原道場と共に、紀元2600年奉祝の折に作られたそうで、その大運動場の北側に陸上トラックが次の資料で確認できます。(その建設には幾多の困難と苦労があったそうですがここでは割愛します。)
 
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橿原神宮 畝傍山東北陵境域並橿原道場之図 ◎吉田初三郎 画・戦前・奈良県奉祝会発行 https://www.asocie.jp/map/postmap/ha_nara02.html
 
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当時の地図に現在の施設を赤字で記入したもの
 
同じく上の橿原考古学研究所友史会さんのサイトでは次のような説明がなされています:
 
「一周400mの陸上競技トラック(8コース)と南側の芝生広場(200m×130m)からなります。運動場は20000人が集団体操をすることが可能です。東・南・北面には10箇所の出入口がある堤防状の観覧席があり、15000人が収容可能です。現在では芝生広場の南半分は野球場になっています。」
 
 
■戦前はどんな設備だったのか
これについては大正末期からの陸上短距離の日本記録保持者であり、1924年のパリ・オリンピック出場選手であり、オリンピックメダリストの人見絹江を育てた陸上競技の指導者であり、そして近鉄(大軌)ラグビー部創生期の部員でもあった谷三三五氏昭和15年(1940)に、この橿原運動場について体育雑誌で紹介しています。
 
「体育日本」第18巻第5号(1940年5月発行)P.34-P.39によると:
一周 400メートル
コース巾 10メートル
直線 150メートル
堤防式スタンドながら「五六千人」の座席を有する。
競技場全体に届く拡声装置を装備。
堤防式スタンド下には便所・倉庫などがある。
運動場全体に芝を敷き詰めている。
 
また他の競技場と比較して誇りえるものとして谷三三五氏は次の2点を挙げています:
・トラックとスタンドが接近しているため競技者の動作を間近に充分に見ることが出来る。
・他の競技場は陸上専用でありながらラグビーやサッカーに利用するため多少の無理が生じているが、当競技場はその点を充分考慮して造られているため競技者も戦いやすく見物人も見やすくなっている。
 
そして「この二点は我々が常に希望して居り乍らも種々の事情により実行不可能であったのだが、茲に初めて実現された次第で他の及ばざる点をこの二つによって充分補ひ得ると思ふのである。」として、陸上競技者として最高級の評価をしています。
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■最後に
今回近鉄ライナーズの試合が行われた「橿原公苑陸上競技場」は現在のスタジアムとしては小ぶりで、そこに多くの観客が詰めかけ、従来からライナーズの試合を見ている人にとっては些か窮屈でしたが、近鉄とも縁が深い橿原地区のラグビーファンやちびっ子ラガーにトップリーグを見てもらうという意味では良かったと思います。またこれだけの集客に尽力された奈良協会の苦労にも頭の下がる思いです。そして何より近鉄ラグビー部と縁のある「橿原運動場」でトップリーグのチームとして今回試合が出来たことは意義深いことだったと思います。
 
おわり