最初の名古屋遠征で名古屋倶楽部・三菱航空と対戦

最初の名古屋遠征で名古屋倶楽部・三菱航空と対戦
 
近鉄ラグビー部は前身の大軌(大阪電気軌道)の社員有志が集まって1927年(昭和2年)にチームを作り、花園ラグビー場開場の1929年(昭和4年)に会社の部として認められます。
 
しかし「近鉄ラグビー50年史」に収録されている試合記録では、1931年(昭和6年)3月15日に名古屋遠征を行い、名古屋ラグビー倶楽部と三菱航空(三菱航空機)と対戦した試合が最初の対外試合の記録となっています。
 
名古屋地方のラグビー界では1939年(昭和4年)7月に西部ラグビー蹴球協会名古屋支部が発足、支部長は高地万寿吉氏、幹事は小林精吉氏、書記会計は丸山功氏が担当して愛知・岐阜・三重・滋賀をカバーしました。(高地万寿吉氏はこの大軌の名古屋遠征の2試合のレフリーも務めてくれています。)
 
名古屋ラグビー倶楽部は中京地区の先駆けの社会人クラブで1925年(大正14年)に設立(発会は翌年)で、中京地区の老舗とも言うべきチームです。上述の名古屋支部設立にも尽力しています。また東西の大学チームを招待して当時のトップクラスのラグビーを名古屋地区の人たちに見せるということも企画しています。
 
また名古屋の三菱航空といえば日本の零戦に代表される航空機メーカーですが、三菱航空ラグビー部は1930年(昭和5年)に創部、東大ОBの佐竹義利や守屋学治が素人(陸上・サッカーなどの他競技経験者)に教え始めて始まりました。三菱大江工場の空き地で退社後に練習し、名古屋倶楽部などと試合を行い強化されてゆきました。
 
この大軌との試合が三菱航空にとって創部より7試合目でしたが、それまでは4勝2敗で、負けた2試合も名古屋倶楽部相手に5-14、8-11と競った試合をしており、かなり強豪でした。
 
 
日本協会機関誌第2巻第4号(昭和6年4月号)には、この2試合のことが書かれています。
 
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大阪の大軌ラグビーチームは(3月)15日名古屋に遠征し、午後1時より名古屋ラグビー倶楽部と、2時半より三菱航空と、八高グラウンドに於いて試合をなし左の如く大敗した。
 
名古屋倶楽部 34-3 大軌 (前半14-3、後半20-0)
 
スクラムのボールは大軌軍へ多く出たが、出足の早い名倶バックロー徳江、岩月につぶされて却って名倶側に有利になりスピードのある名倶のTBに攪乱され得点の開きは大きくなった。大軌は前半ドリブルで進み右中間の5(ヤード)スクラムを押し切ってスクラムトライを得たのみで名倶に前半3トライ1ゴール、後半5トライ1ゴールを奪はれ34-3で惨敗した。(レフリー)高地、(タッチジャッジ)松本、野口。
大軌:FW田中、長瀧、服部、西村、伊部、藤田、合田、井上、HB東、木田、TB飼田、村田、沢田、谷、FB藤井。
名古屋倶楽部:FW佐々、小林、下出、宮田、森本、岩月、徳江、西川、HB平岩、前田、TB松岡、小林、佐竹、佐藤、FB藤原。
 
 
三菱航空 30-0 大軌 (前半10-0、後半20-0)
 
対名倶戦の疲労も見えて大軌軍に闘志乏しく又バックに駿足なく元気一杯の三菱軍にあっけなくやられ前半2ゴール、後半5トライ1ゴールを挙げられて30-0で再敗した。
(レフリー)高地、(タッチジャッジ)岩月、木田。
大軌:FW高橋、田中、大島、西村、清水、隅田、續木、野田、HB東、沢田、TB竹島、村岡、合田、伊部、FB服部。
三菱航空:向後、豊田、平野、楢原、飯田、内田、岩田、手島、HB大岩、佐竹、TB植木、斉藤、佐藤、杉浦、FB辻。
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八高グラウンドとは旧制第八高等学校のグラウンドで、現在の名古屋市立大学滝子キャンパスの場所です。瑞穂区で、現瑞穂ラグビー場の近くですが、当時はまだ瑞穂ラグビー場は出来ていませんでした。
 
なお、当時、大軌ラグビー部に所属していた沢田健一氏は元々、東大でラグビーをして、その後、名古屋に勤務し名古屋倶楽部との関係があり、そして花園ラグビー場建設に当って大軌にスカウトされた経緯から、このときの名古屋遠征でもマッチメイクなどの仲介的役割を果たしたものと思われます。
 
大軌ラグビー部にはほろ苦い初遠征となりましたが、その後メキメキと力をつけてゆきました。
 
 
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(試合当日の三菱航空の選手達。「三菱名古屋ラグビー創立50年史」より)