岩井信幸選手

岩井信幸選手
 
1970年代に近鉄ラグビー部(現近鉄ライナーズ)で活躍され、その後、布施ラグビースクールの校長を務められていた、岩井信幸氏が今月10日にお亡くなりになったことが、同ラグビースクールフェイスブックで発表されていました。
 
謹んでご冥福をお祈りいたします。
 
岩井選手が現役当時、フロントロー一筋で、近鉄では当初はプロップ、後年フッカーとしても近鉄の黄金期を支えられました。

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1969年(昭和44年)に近鉄に入り、同期には全日本代表だった今里良三選手や原進選手(後のプロレスの阿修羅・原)らが居ましたが、岩井選手は布施工業高校(現布施工科高校)からの近鉄入社でした。
 
布施工高は、当時の顧問の土岐一郎先生が永年日本協会や関西協会の役員、レフリーとして活躍されていましたが、近くと言うこともあり近鉄とは大軌(大阪電気軌道)時代から縁がありました。
 
その関係で、日本代表にもなった川崎守央選手や小西謹也選手らを筆頭に、素質豊かな選手が布施工高から(大学を経由せず)近鉄に多数入って来ました。
 
岩井選手も布施工高時代に既にフッカーで大阪府高校優秀選手表彰に選ばれています。
 
しかし入社当時の近鉄フロントローといえば川崎守央選手や神野崇選手(関大)が居り、翌年には黒坂敏夫選手(同志社大)が加入して、全日本代表クラスがゴロゴロ居ましたので、岩井選手がレギュラーに定着するのは、3年後の1972年度(昭和47年度)のシーズンからでした。
 
近鉄が3度目の日本一に輝いた1974年度(昭和49年度)の頃は戦列から離れていましたが、1976年度(昭和51年)から戦列に復帰、以後1980年度(昭和55年度)のシーズンまでほぼ全ての公式戦に出場、近鉄には無くてはならない選手でした。
 
引退後も、1982年度(昭和57年度)から2シーズンをアドバイザーとして、また1989年度(平成元年度)から1995年度(平成7年度)まで実に7シーズンをマネージャーとして近鉄ラグビー部を陰で支えてこられました。特に1992年(昭和57年)に近鉄初の外国人選手である韓国の李榮宰選手を獲得する際には大変尽力されました。
 
本当に近鉄ラグビー部を愛しておられたのだと思います。
 
現歴だった当時に「近鉄ラグビー50年史」にも寄稿され、その文章の最後で「今夜もまた、練習があります。精一杯頑張ります。明日のために。」と述べられています。
 
正に近鉄ラグビーを地で行くレジェンドです。
 
合掌