原進選手(阿修羅・原)、近鉄ラグビー伝説の名選手

原進選手(阿修羅・原)、近鉄ラグビー伝説の名選手

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先日のブログでも書きましたが、近鉄ラグビー(近鉄ライナーズ)のレジェンド(伝説の名選手)ともいえる原進選手が2015年4月28日に逝去されました。
 
プロレスに転向し「阿修羅・原」として一世を風靡してそのファンも多く、現在でもインターネットで語り継ぐプロレスファンが多いのでその人気振りを現していましたが、ラグビー時代の実績がいかに凄かったものかはあまりネット上では見られませんでしたので、いずれこのブログで紹介したいと思っていたところでのご逝去は誠に残念です。
 
以下に詳しい経歴をまとめましたが、まとめる過程で今回古い資料を見ていると、あのボールを持った豪快な突進を思い出しました。と同時にバックロー(フランカーナンバーエイト)、ロック、そしてプロップと、どのポジションも本当に器用にこなす選手だったことを思い出します。日本代表でプロップに転向してからも近鉄ではユーティリティープレーヤーだったゆえにチーム事情により色々なポジションをこなしました。
 
重戦車のような小笠原博選手と比べると俊足で、100mを11秒8で走ったということで、当時全日本代表でも外人に対抗できる体格と共に、俊足で機動力のあるところが評価されたのだと思います。ディフェンスでも俊足を生かした集散の早さ、そしてその体格での低く強いタックルは強烈でした。
 
原選手は近鉄入社の頃はまだ頭髪がスポーツ刈りで、同じく体格のよかった小笠原博選手のような「怪物」的な風貌とは対照的に、純粋に「強靭なスポーツマン」の風貌で、後年髪を伸ばし髭を蓄えてダンディーさを醸し出して、後のプロレス界でも和製チャールズ・ブロンソン(あのマンダムのCMの)と言われたそうです。
 
しかし、ラグビーマガジンなどのインタビューでは真摯な受け答えが印象的でしたし、東洋大学の後輩で近鉄に入社する栗原進選手(日本代表)も「名前が一字多いだけだ」と可愛がられたとのこと。またプロレス転向後も後輩の面倒見が非常によかったとの事です。
 
その栗原選手は原選手の柔軟性とスピードを挙げ「小笠原さんの体が鉄のように硬いのに対して、原さんは吸収されていくような感覚でした。BKのようなスピードもあって、基礎体力が違いました。」(「日本ラグビー激闘史23」1974-76)と述べています。

【退社について】
1976年(昭和51年)9月の日本代表の英国イタリア遠征に参加して、その際に9月26日ウェールズカーディフの100周年記念試合の世界選抜に出場しましたが、帰国後の11月に近鉄を退社して母校東洋大ラグビー部のコーチに就任し、スポーツ店に勤務したと伝えられ、翌1977年11月に国際プロレス入りしています。
 
ラグビーマガジン1976年5月号(4月初旬発売)での選手名簿には近鉄の主将として記載があったのですが、英伊遠征中はともかく、帰国後の近鉄の試合には、9月15日のリコーとの定期戦でナンバーエイトを務めたのみで、それ以降の公式戦に出場した記録は残っていません。
 
また、1981年4月発行の「近鉄ラグビー部50年史」の1976年度の部員名簿には主将は下司光男選手となっており、原選手の名前はありません。
 
原選手が会社に辞意を伝えたのが英伊遠征の前なのか後(帰国後)なのか、また退社に関して既にプロレスからの話があったのかは(手元の資料では)不明です。プロレス関係の書物を調べれば分かるかもしれません。
 
いずれにせよ、これだけ活躍し、またラグビーにひたむきだった選手が近鉄の社員としての待遇(近鉄ラグビー部や日本代表に参加していた間は給料が出ない)で辞めていったということは残念でなりません。
 
■経歴
★中学・高校時代
1947年(昭和22年)1月8日、長崎県北高来郡森山町生まれ。
1962年(昭和37年)森山中学から諫早農業高校へ進学。
中学時代に柔道で鍛え、既に178cm、80kgという体格で、同校は相撲の名門校だったため相撲部に入部。
 
高校2年の時に鋭いツッパリと押しを武器に長崎の新人個人戦で優勝。名前が知られるようになる。相撲部に在籍しながらラグビー部からも「遊びに来いよ」と誘われ、相撲のオフのときに練習に参加して、全国大会の県予選にスクラムの組み方も知らずに右プロップで出場し散々な目に合い、ラグビーにも力を入れ始める。
 
高校3年時には相撲部として国体の九州予選で準優勝、全国大会では個人戦のベスト18に。高校在学中に長崎県内では負け知らずの快進撃。ラグビー部では俊足を利用してWTBに転向した。
 
★大学時代
大学進学では相撲の勧誘も多々あったが、諫早農高ラグビー部の川口監督が東洋大学の佐藤監督と日体大で同期だった縁で、1965年(昭和40年)、東洋大学へ進学しラグビー部に入部。
 
原が入学した頃は関東大学ラグビーは所謂「伝統校と新興校の対立」で非常に混乱していた時期だったが、東洋大は強豪と言われるほどではなかった。
ただ東洋大の夏合宿は日体大と合同で函館で行われていた関係で、日体大の綿井監督やコーチに来ていた西野綱三氏らの目に止まり、「東洋大の原」という名前が広がったといわれる。
 
大学2年の1966年(昭和41年)5月に天理高校にて行われた全日本代表選手合宿に呼ばれる。シーズンインした大学ではBブロック2勝4敗、法政・日大・専修・中央に次いで5位となる。
 
大学3年の全日本代表合宿で、当時の近鉄の主将であり全日本の副将だった石塚廣治(石塚広治)から近鉄に来ないかと誘われ二つ返事で了承した。(この当時の近鉄は第4回日本選手権で優勝し、合宿後のシーズンでも2連覇を達成する日本一の強豪だった。)
 
そして合宿後の9月30日、日豪親善試合(秩父宮)全日本対イースタンバーブス戦でも召集されリザーブとなる。秩父宮へ向かうバスの車中、原が「どうせ試合に出ないんだ。気が楽なもんだね。」と同僚と話していると川越監督から「そんな心構えではだめだ」と叱責された。結局は試合に出れるチャンスは無かったが、後年その言葉の重さを知ったという。
 
この年度の関東大学ラグビーはリーグ戦グループと対抗戦グループに分裂、第1回リーグ戦で東洋大学は、3勝4敗で法・中・日・専に次いで5位(8チーム中)となる。
 
大学4年の1968年(昭和43年)9月21日に秩父宮で行われたニュージーランド遠征から帰国した全日本代表と全日本代表候補の試合では候補のナンバーエイトで出場。同年度の第2回関東大学リーグ戦では3勝5敗で専・中・法・防・日に次いで6位(9チーム中)となる。東洋大学では主にナンバーエイトフランカーで活躍する。
 
1969年(昭和44年)に近鉄入社。同期には中央大から全日本代表だった今里良三などが居た。
当時、近鉄は関西社会人Aリーグ創設以来、破竹の11連覇中だったが、このシーズンでは3敗を喫し4位でリーグを終了。しかし、第22回全国社会人大会ではトヨタ自工を破って優勝。ただしアジア大会と日程が重なった日本選手権には、代表選手を多く抱える近鉄は出場辞退。富士鉄釜石が日本選手権に出場。
 
原はシーズン序盤(石塚不在時)はナンバーエイト、石塚が復帰した公式戦は右フランカーでレギュラー出場。
 
1970年(昭和45年)2月に行われた全日本代表の国内強化試合では、全広島戦、全同大戦、日体大戦、全早大戦にナンバーエイトで出場。
 
続く3月、ニュージーランド大学選抜(NZU)と全カナダが来日した三国対抗でのNZU戦(3月15日、花園)に交代出場し、後年制定されたキャップ制度によりこの試合が原にとって最初のキャップとなる。
 
1970年(昭和45年)度、近鉄に入社して2年目の夏、日本代表の菅平合宿で走れる大型プロップとしてプロップ転向を告げられる。ただし近鉄ではチーム事情により依然バックローやロックを務める。また9月19日に秩父宮で行われた全日本代表対全日本候補戦での全日本代表にナンバーエイトとして出場。
 
なお、この年度の近鉄は関西社会人Aリーグ4勝2敗で3位。秩父宮での第23回全国社会人大会では準々決勝で新日鐵釜石によもやの敗退。原はチーム事情(鎌田勝美(日本代表)の引退)で小笠原とロックを組んでレギュラー出場。この時期は近鉄の新旧交代の時期で原のポジションも年々変わってゆくが無難にこなしてゆく。
なお1971年(昭和46年)3月14日、花園での全日本東西対抗戦で西軍で出場。
 
1971年(昭和46年)はトライが3点から4点に変更された年度で、9月には全イングランド代表が初来日。原は9月24日(花園)全日本19-27全イングランド、9月28日(秩父宮)全日本3-6全イングランドの両試合に左プロップで出場。
 
近鉄では関西社会人Aリーグで5勝1敗で優勝。第24回全国社会人大会(花園)は準決勝でリコーに0-9で敗れる。このシーズンは原は石塚の引退でナンバーエイトで固定される。前年務めた右ロックは新人の下司光男が務めた。
 
1972年(昭和47年)1月から2月に行われた全日本代表強化試合での関西選抜戦、関東選抜戦、全日本学生戦に全日本代表の左プロップで出場。翌3月に行われた全豪州コルツ戦2試合でも全日本代表の左プロップで出場。続く4月13日秩父宮で行われた全日本代表強化試合の日本B代表戦でも全日本代表の左プロップで出場。
 
ただ、7月に菅平で行われた全日本候補強化合宿には欠場し、11月の第3回アジア大会(香港)にも欠場した。
 
1972年(昭和47年)度のシーズンには近鉄のキャプテンを任される。関西社会人Aリーグ6勝全勝で優勝。しかし第25回全国社会人大会では準々決勝(秩父宮)でトヨタ自工に敗退。このシーズン序盤は右フランカーで出場していたが小笠原の負傷で以後左ロックでシーズンを過ごす。
 
1973年(昭和48年)9月に行われた全日本代表の英仏遠征では原は11試合中10試合に左プロップで出場。ウェールズ代表戦、イングランドU23代表戦、フランス代表戦というテストマッチにも出場。
 
またキャプテンとして2年目の近鉄でも関西社会人6戦全勝で優勝。原は英仏遠征から帰国後の公式戦にほぼ左プロップで出場。ただ第26回全国社会人大会決勝(花園)では3-4でリコーに敗れて準優勝。
 
1974年(昭和49年)4月に行われた全日本代表のニュージーランド遠征では原は11試合中、NZU戦2試合を含む8試合に右プロップで出場。また9月14日国立で行われた全日本代表強化試合:日本代表60-14日本代表候補でも全日本代表の左プロップで出場。
 
同年11月には全日本代表が第4回アジア大会スリランカ)に出発。原は大会直前のスリランカでの親善試合3試合のうち2試合に出場。アジア大会本大会では全4試合に出場し優勝に貢献。ポジションは左プロップ2試合、右プロップ4試合。
 
近鉄は関西社会人Aリーグ6戦全勝で優勝。1975年(昭和50年)1月8日に行われた第27回全国社会人大会決勝(花園)では10-7でリコーを下し優勝。1月15日に行われた第12回日本選手権決勝(国立)では早稲田大を33-13で下して優勝。坂田・小笠原の引退に花を添えた。
 
なおこの試合で、終了直前の後半39分の坂田の現役公式戦最後のトライを挙げた直後に一番に先に近寄って祝福したのは盟友の今里と原だった。原はこのシーズン、アジア大会で抜けた期間以外は近鉄でほぼ右プロップでレギュラー出場。
 
また1月26日に行われた関東協会50年祭(国立)招待選抜対全関東戦にも出場。更に3月にはNZカンタベリー大が来日。早大、明大、同大、天理大、近鉄、日本と対戦。原は近鉄の試合および日本代表2試合の計3試合で右プロップとして対戦。更に3下旬にはケンブリッジ大が来日。3月30日国立での全日本代表対ケンブリッジ大戦に右プロップで出場。
 
1975年(昭和50年)、近鉄は5月に韓国遠征を行い原も参加、韓国で2試合をこなす。また7月下旬からの日本代表の豪州遠征に参加。原は9試合中7試合に出場(すべて右プロップ)。9月には当時世界最強だったウェールズが来日し近鉄早大連合および花園での日本代表で右プロップで出場。
 
しかしこのウェールズ戦で今里と吉田正雄が負傷。近鉄にとっては大きなハンディとなった。しかもこのシーズンは日本代表や代表候補、ジュニアのセレクションや合宿に多くの選手を近鉄から輩出して、夏合宿が行えず、9月のウェールズ戦でも5人を排出、結局10月に合宿を行い、ベストメンバーが組めたのは12月からであった。それもあって関西社会人リーグでは三菱、トヨタについで3位、全国大会でも2回戦(準々決勝)で姿を消した。
 
原は近鉄ではチーム事情もあり関西社会人リーグでは右プロップ、全国大会では左プロップでレギュラー出場。
 
1976年(昭和51年)5月、若手主体で編成された日本代表のカナダ遠征には、他のベテランと共に不参加。しかし9月の日本代表の英国イタリア遠征には原と今里が復帰。原は10試合中4試合に出場。さらに遠征中の9月26日ウェールズカーディフクラブ100周年記念試合の世界選抜チームに原進がFLで出場。
 
帰国後の11月、原は近鉄を退社。
 
原が出なかったこのシーズンの近鉄は関西社会人リーグで全勝でトヨタスポーツセンターへ乗り込んだがトヨタに惜敗、準優勝となった。全国大会では2回戦でまたも東京三洋に惜敗した。
 
おわり
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