(つづき)
★1965年度(昭和40年度)
近鉄に入社。同期入社に同大での盟友坂田好弘、中井司郎(法大)、更に田中行正(花園高)、前田弘夫(花園高)、近藤典夫(天理高)らがいました。
近鉄はそれまでの3シーズン、全国社会人大会で八幡製鐵に敗れており、中井・坂田・石塚という即戦力の大卒トリオの加入は大きな補強でした。石塚自身も本職のバックローセンター(ナンバーエイト)で即レギュラー。関西社会人リーグの緒戦、三菱重工京都(この頃はまだ自工ではなかった)では前半23分にCTB松本のタックルから石塚がボールを奪取して突進、フォローした坂田へパスしてトライ。また母校同大との対戦では後半28分に石塚から長居パスを坂田につないでトライ。また関西社会人リーグでは4戦全勝で8年連続8度目の優勝を決めた大阪府警戦でも前半32分に勝利を決定付けるトライを石塚が挙げるなどの大活躍。
八幡の史上初の4連覇を食い止めるべく臨んだ第18回全国社会人大会では、警視庁・東京三洋・京都市役所を撃破し決勝へ進出。しかし決勝の八幡戦では風下に回った前半、接近戦を避けてキック戦法に出られた八幡にしてやられ、準優勝に留まりました。
このシーズン終了後の1966年(昭和41年)3月には母校の同大がОBも含めて「全同大」としてニュージーランド遠征を敢行。石塚も坂田とともに選ばれて参加しました。なお、この遠征の日程の関係上、第19回三地域対抗戦のメンバーには選ばれませんでした。
★1966年度(昭和41年度)
石塚がFWの攻撃の基点になったこの年度の近鉄は圧倒的に強く、シーズン序盤ニュージーランドのウェリントン・アスレチックを破り、この年度にトヨタ自工が初参戦した関西社会人リーグでは5戦全勝で9年連続9度目の優勝。
第18回全国社会人大会では九州電力、山陽パルプ、そしてメキメキ力を付けて来た富士鉄釜石をも破り決勝進出。決勝では準決勝で八幡を破ったトヨタ自工と対戦。この試合でも2本目のトライは石塚が抜け出してから坂田に渡ったもの。更に後半にも石塚の単身ドリブルからのトライで、トヨタに圧勝して5年ぶりの優勝。
続く第4回日本選手権では前半早大の健闘にあいましたが、後半2分に得たPGがポストに当たり跳ね返ったボールを石塚が反応良くキャッチして早大デフェンスを振り切って左中間にトライ。これをきっかけに近鉄がトライを量産、後半25分には再び石塚がトライして初めての日本一の座を手にしました。
★1967年度(昭和42年度)
入部3年目で主将に就任。以後引退まで5シーズン主将を務めます。
そのイースタンサバーブスに破れ、関西社会人リーグではトヨタに思いもよらぬ敗戦を喫するも、その後持ち直して、各チームに苦戦しながらも5勝1敗で京都市役所と同率ながら10年連続10度目の優勝を達成。この頃は本当に苦しい時期で、後の日本選手権優勝後の石塚の手記では「・・イースタンサバーブス、トヨタ自工に破れ、どうなるかと先を心配し、これで正月の全国大会で苦しい目に会わされるだろうなど、内心思っていました」(日本協会機関誌VOL.17-5、P16)と述べています。
そんな中で迎えだ第20回全国社会人大会では東京三洋・栗田工業・リコーを撃破。決勝では2年連続でトヨタと対戦し、中山忠の逆転トライで2連覇を達成。このときの逆転トライの基点となったのも混戦からボールを拾った石塚の突進から生まれたものでした。更に第5回日本選手権では法政大を破って2年連続日本一となりました。
3月に行われた第21回三地域対抗戦でも全関西代表として2試合ともに出場。
★1968年度(昭和43年度)
日本ラグビー界の歴史を変えたといわれるオールブラック・ジュニアを破った、全日本代表のニュージーランド遠征が5月~6月に行われ、近鉄からは石塚広治、川崎守央、中山忠、小笠原博、鎌田勝美、大久保吉則、坂田好弘の7選手が参加。更に翌年近鉄に入社する今里良三(当時中央大4年)も参加。この遠征で石塚は、尾崎真義主将に次ぎバイスキャプテンを務めます。遠征全11試合中10試合に出場。如何にFWの中心選手であったかが分かります。
3連覇を賭けて秩父宮へ乗り込んだ第21回全国社会人大会でも善通寺自衛隊・警視庁を文句無く破り準決勝ではこの時すでにチーム力が衰えていた八幡製鐵と対戦。近鉄の決勝進出間違いなしと思われていた八幡との試合でまさかの敗戦。「3年連続日本一」の夢はもろくも崩れました。
以後、全日本代表や選抜チームにはNZ遠征以降は選出されていませんが、代表を辞退し所属チームである近鉄と社業に専念したものと思われます。
★1969年度(昭和44年度)
このシーズン、序盤の大学との対抗戦には石塚は出場しませんでしたが関西社会人リーグが始まるとスタメン入り。しかしその関西社会人リーグでは、京都市役所・トヨタ自工・三菱重工京都に敗れ、3勝3敗で初めての4位に転落。創立以来続けてきた連覇はストップします。そのような状況で迎えた第22回全国社会人大会。1回戦は東日本ナンバーワンの東京三洋に苦戦しながらも逃げ切り、2回戦では大分教員には大勝、準決勝ではリーグ戦で敗れた三菱重工京都に圧勝して決勝進出。トヨタと争った決勝では見事に圧勝して、2年ぶり7度目の優勝を飾りました。
★1970年度(昭和45年度)
結果的に石塚の最後のシーズンとなるこのシーズンは、序盤の大学との対抗戦からフル出場、関西社会人リーグ・全国社会人大会を含めて全試合出場でした。
しかし関西社会人リーグではトヨタ自工、三菱重工京都に敗れ、4勝2敗で3位。2連覇・8度目の優勝を目指した秩父宮での第23回全国社会人大会では、2回戦で前シーズンに近鉄が日本選手権を棄権して代替出場した新日鉄釜石と対戦。がっぷり四つに組まれて押し込まれて敗退します。この当時の近鉄が2回戦で敗退するのは非常にセンセーションでした。
以上で石塚選手は現役引退します。これだけの歴戦の勇士ですが、現役引退後も身体には様々な傷が残り、右膝関節の靱帯は釘で固定され、左手薬指は左へ90度曲がったまま、両手小指はまっすぐに伸ばせず、首から上は裂傷で100針以上縫っており、前歯上4本は折れて差し歯であると、後年著書に記しています。
全日本代表としては、ノンキャップ試合ながら、1963年4月10日のビクトリア戦(カナダ遠征)で初出場して以降、後年制定されたキャップ対象試合では5試合、ノンキャップ試合では実に14試合(内5試合で主将)、合計19試合に出場。
引退以降、近鉄ラグビー部からは離れて社業に専念されますが、1990年(平成2年)から1995年(平成7年度)までラグビー部の副部長に就任。ニュージーランドのオライリー・コーチの招聘、チーム初のフィジー選手の獲得などに尽力されます。