すっかりご無沙汰してしまい、当ブログの更新が出来ておりませんでした。
友人が統一地方選挙に出馬するということで、そのスタッフに加わり、大変忙しくしておりました。今までは市議会議員選挙でしたが、今回はその市の市長選挙への立候補で、選挙運動の規模も期間も桁違いに大きく、更に彼は全くの無所属でどの党にも属さず、推薦も無かったので大変な選挙でした。
さて、その選挙も終わり、近鉄ライナーズの春の強化試合の日程も発表されて、そろそろこのブログも更新せねばと思っていた矢先、近鉄ラグビー部の黄金時代を支え、また当時の全日本代表、そして世界選抜に確か日本人で最初に選ばれた原進(ハラ・ススム)選手が亡くなったというニュース飛び込んできました。
後年、プロレスに転向して「阿修羅原」(アシュラ・ハラ)としても活躍されました。
近鉄の「レジェンド」として、いずれこのブログで詳しく経歴を書こうと思っていた選手です。
![イメージ 2](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/sakataishizuka/20190907/20190907000800.jpg)
当時はあまり強くなかった東洋大学で頭角を現し、全日本の合宿に呼ばれ、当時の近鉄のキャプテンで全日本のヴァイスキャプテンだった石塚広治選手に勧誘されて近鉄に入社した逸材でした。近鉄でも入社後すぐに大活躍、ロック、バックロー、そしてプロップと様々なポジションをこなして近鉄の強力FWを支えました。
それだけ活躍しながらも、近鉄のアマチュアリズムの厳しさに不満を抱いてのプロレス転向だったと伝え聞いています。何しろ近鉄ではチームの合宿・遠征、更に全日本の合宿・遠征でさえ欠勤扱いとされ給料を減らされる時代でした。
当時、公立の中学の部活動でさえ公式戦のため授業を早引きしても、欠席にはならなかった時代です。もちろん他の社会人ラグビーチームでも公休や出張扱いにされていましたが、近鉄ラグビー部が如何に活躍し新聞紙上を賑わせても、企業人として特別扱いされませんでしたから、原選手が不満を持つのも仕方ないと思いました。
その後、波乱万丈の人生を送られたようですが、今回、あまりにも早いご逝去で本当に驚きました。
謹んでご冥福を祈りたいと思います。
![イメージ 1](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/sakataishizuka/20190907/20190907000756.jpg)
左から2番目が原進選手
(1969-12-31第22回全国社会人大会 近鉄vs大分教員 於花園)
【訃報】阿修羅原さん死去 ラグビー世界選抜メンバーからプロレスへ
2015年04月28日 17時37分 東スポWeb
元プロレスラーの阿修羅原さん(本名・原進)が28日午前5時15分、長崎・諫早市内の病院で肺炎のため死去した。68歳だった。
原さんはラグビー選手として長崎・諫早農高から東洋大、近鉄に進み6年間、日本代表として活躍。1976年には日本人として初めて世界選抜メンバーに選ばれた(左プロップ)。77年にプロレスに転向して国際プロレスに入団。78年6月26日、大阪府立体育会館の寺西勇戦でデビュー。その直後に海外へ武者修行に出て翌年に帰国し、作家・野坂昭如氏から「阿修羅」のリングネームを命名された。
79年にはWWU世界ジュニア王座奪取。81年の国際プロ崩壊後は全日本へ戦場を移す。“ヒットマン”の異名を取り、87年から天龍源一郎とタッグを結成。当時では革命的だったゴツゴツとしたプロレスを展開して「天龍同盟」と呼ばれ、一時代を築き上げた。
その後、2年のブランクを経て91年に天龍のSWSで復帰。94年10月に故郷・長崎で引退試合を行った。マットに上がったのは2001年5月のFMW川崎大会で天龍―冬木弘道戦のレフェリーを務めた時が最後だった。近年は心筋梗塞を患って闘病生活を送っていたという。
29日午後7時から長崎・諫早市のJAながさき県央協同社小野斎場で通夜、30日午後1時から同所で葬儀・告別式が営まれる。喪主は妹の山田咲子さん。