トヨタ自工のジャージ

 
先日、大分舞鶴のジャージ(ユニホーム)の件で少々友人と電話で盛り上がりました。
 
また別の方から全黒だった大分舞鶴のジャージがジャパンと同じだったことが新鮮だったとメッセージを頂きましたので、昔のジャージを少々ネタにさせて頂きます。
 
近鉄ラグビー部のライバルであったトヨタ自工ラグビー部(現トヨタ自動車ヴェルブリッツ)のジャージは現在、緑一色で一部オレンジがありますが、これにはストーリーがあります。
 
戦前の創部時は緑、戦後すぐには赤、その後しばらくして紺(青)・水色・白の3段柄に。この3段柄で全国社会人大会・日本選手権の初優勝を経験し、昭和49年(1974)年度の関西社会人Aリーグ戦まで、3段柄が続きました。
 
更に昭和50年(1975)1月の第27回全国社会人大会から緑に変更されました。それが現在に至ります。
 
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トヨタ自工ラグビー部の始まりは、戦時下に産業に従事するトヨタの産業戦士が余暇にもラグビーの練習に取り組むという映画を製作し、全国で上映して国民の士気を高めようと企画したことがキッカケでした。
 
その際に、トヨタ全社のラグビー経験者のエキストラを集めて、更に既にあったサッカー部のユニホームとスパイクを借りてどうにか撮影を行ったそうです。撮影が終わってラグビー経験者たちが部を作ろうと言い出したのがきっかけだったそうです。同好会が発足したのが昭和15年7月、部に昇格したのは昭和16年(1941)年8月、初めての公式戦は同年10月26日の東邦電力戦だそうです。(註1)
 
戦後の復活は昭和22年(1947)。会社の強化指定クラブになり、またその後、鮮鉄の秋本正太郎選手らが入部し、チームは強化されてゆきます。
 
昭和23年(1948)の冬には岐阜に新しく完成したラグビー場の開幕試合(対全岐阜)に赤いジャージを新調したとの話(註2)があります。
 
次にユニフォーム新調の際には秋本正太郎選手のデザインで紺(青)・水色・白の3段柄になったそうです。実はこの柄は、戦前の知葉友雄氏率いる鮮鉄(朝鮮鉄道局)ラグビー部と同じ柄です。
 
近鉄ラグビー部の戦後最初の監督で、鮮鉄出身の柘植平内氏は「トヨタのジャージーには当時を思い起こし親しみを抱いたものです」と語っています。(註3)
 
そのジャージで近鉄や八幡に匹敵する強豪に成長。関西社会人リーグでも全国社会人大会でもでも近鉄の好敵手となります。昭和44年(1969)1月第21回全国社会人大会で初優勝、更に第6回日本選手権でも優勝します。私にはこの頃の3段柄ジャージのほうが記憶によく残っています。
 
ジャージにも色々な歴史があるものです。
 
註1:「愛知ラグビーのあゆみ」P.134
註2:「勇躍・トヨタ革命宣言とラグビー部」P.70
註3:「ラグビーマガジン1975年3月号、P.67