鮮鉄ラグビー部(4)知葉友雄

 
鮮鉄ラグビー部④知葉友雄
 
鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局、朝鮮鉄道)のラグビーを語る上で、知葉友雄氏を抜きでは語れません。また近鉄ラグビー部(近鉄ライナーズ)の恩師でもある同氏の足跡を辿ってみます。
 
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知葉友雄は明治38年(1905)年、大阪市西区南堀江の商家に生まれ、小学校だけを終えて一家は東京へ移住、中学は東京の正則中学(旧制)に進みました。
 
大正13年(1924)に明治大学商学部に入学。当初相撲をしていましたがラグビー部に転進。元々相撲のほかにも柔道・剣道にも相当な心得があり、さらに中学時代にはテニスで全国大会に出場した経験を持っていました。
 
明治大ラグビー部では木元規矩男(後の九州ラグビー協会会長)とセカンドロー(LO)を組み、「機関車スクラム」の中核をなしました。昭和3年(1928)関東大学対抗戦では早稲田大・東京大・立教大に勝つも慶応大に2点差で破れ2位。昭和4年(1929)には北島忠治の後を受け主将に就任しますが、この年も慶応大・早稲田大・東京大に勝つも立教大に破れて2位となります。
 
この頃、既に頭角を現し、昭和4年(1929)11月、第5回明治神宮大会で行われた全日本東西対抗で関東学生の⑥で出場。また昭和5年(1930)2月に行われた第3回全日本東西対抗では関東⑤で出場。更に同年9月には全日本代表に選ばれカナダ遠征に参加、選手22人中唯一、全7試合に出場しました。(セカンドローで6試合、バックローで1試合)またその後東京と大阪で行われた帰国記念試合2試合にも出場しました。
 
この遠征でのことは後年「“絶対勝つ”という信念のもとに参加し、全力をあげてプレイしました。そして悔いなく全試合を終了できたのです。」(昭和34年(1959)全カナダ来日プログラム、全日本軍監督としてのメッセージより)と述べています。
 
卒業後は昭和5年(1930)の秋に鮮鉄に奉職したということですが、昭和6年(1931)春から暮れの10ヶ月間、志願兵として本籍地の大阪信田山野砲4連隊に入営しています。(なお、直接関係はありませんが、この信田山は後に関西社会人Aリーグや全国社会人大会に出場する中部自衛隊の本拠地でした。)
 
また鮮鉄に入局後は自チームの練習のみならず、知葉と上野謙吉(同志社大出)の2人が中心となり、柘植平内(後の近鉄監督)や和田政雄の在学していた京城商業の指導をするなど精力的に朝鮮のラグビー普及にあたりました。
 
鮮鉄では昭和9年(1934)から監督兼主将に就任。その後の鮮鉄の快進撃は既出の通りですが、その練習内容は相当厳しかったようで、有名大学出身の選手も中学(旧制)卒の選手も20kmのランニングや日没までの猛練習(京城=現在のソウルの日没は遅い)、さらに日没後も月の光でボールを追いかけたといいます。
 
また、上記の柘植平内や和田政雄の就職・進学の世話をしたり、昭和11年(1936)の早稲田大の満州・朝鮮遠征の際に同チームが満州から朝鮮に入るのを出迎えるために、京城から満州・朝鮮国境の安東まで十数時間もかかる道のりを出迎えに行ったという人情家でした。
 
鮮鉄が解散、終戦後、引揚者として知葉は大阪に戻ります。半島からの引揚者を受け入れるための開墾事業を宮崎県日向大束でしたりしていました。しかしこの時すでにいずれは東京に出るつもりのようでした。
 
そして東京へ移り、今度は御徒町で「友鹿商店」というアイスクリームの製造販売業を営み数十名の従業員を雇い、しかもその殆どは明治大ラグビー部員をアルバイトとして雇ったという面倒見の良い人物であったようです。
 
昭和24年(1949)には日本大学の監督に就任。日本大学はめきめきと力をつけて行き、昭和29年(1954)には関東大学対抗戦で準優勝。翌昭和30年(1955)には、関東大学対抗戦で早稲田大・明治大から創部以来の初勝利を含む6戦全勝で優勝し、来日した全豪学生選抜チームと学生単独チームで対戦しています。
 
この当時の日本大学で鍛えられた選手の中には近鉄に入社して後の監督も歴任する福田廣(福田広、日本代表ノンキャップ試合出場)や、在学中に日本代表に選ばれ後に近鉄入りする近藤功(キャップ1)が居ました。
 
また戦後、近鉄ラグビー部が活動再開し、柘植平内が監督をしているということで、またチーフマネージャー大北弦と知葉とが交遊があったことで、昭和24年(1949)花園ラグビー場の米軍接収解除より近鉄のゲストコーチも務めました。「2年間にわたり夏合宿にきて起居をともにし、彼(知葉)の陣頭指揮のもとできたえあげられ、その後も時々来阪。熱心な指導を受け、これによって近鉄ラグビーに魂が入り、チームも次第に力をつけてきた」(「近鉄ラグビー50年史」P66より)とのことです。
 
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私の亡父(近鉄ラグビー部OB)もこの時、知葉氏に指導を受けた一人ですが、それはそれ厳しい練習だったと生前述べておりました。
 
昭和34年(1959)には全日本代表の監督に就任し、全カナダ(ブリティッシュコロンビア)と対戦しています。学生時代に全日本代表として遠征したカナダとの再び対戦でした。
 
つづく