鮮鉄ラグビー部③概要
【昭和14年度(1939)(続)】
「運動年鑑」によると、その神宮大会のラグビー実業団の部は昭和12年(1937)の第9回大会に初めて実施されましたが、この時は、紅軍と白軍に別れ、白軍は東鉄局(東京鉄道管理局)、紅軍は「マツダ」となっています。当時の実業団ラグビー界から想像するとこの「マツダ」は現在の自動車メーカーのマツダではなく、「マツダランプ」(東京電気、東芝の前身)ではないかと想像されます。そうであればどちらも関東にチームであり、東西のラグビー協会で予選や推薦を行ったわけではなく、真の実業団日本一決定戦ではなかったと想像されます。
しかし次の第10回神宮大会(昭和14年度(1939))は、西部(関西)協会で西部の代表決定戦を行い、鮮鉄が全川崎を14-0で破り、神宮大会に出場、ここでも東部代表の新鉄土崎工場を68-0(前半34-0,後半34-0)撃破して、王座に就きました。
【昭和15年(1940)】
1940(S15)-05-??:○23-5撫順満鉄(撫順満鉄グラウンド)
1940(S15)-10-??:○57-0京城倶楽部(第16回朝鮮神宮奉賛体育大会一般の部)
1940(S15)-10-17:△8-8同志社大学(花園)
1940(S15)-10-20:○22-8京都大学(花園)
1940(S15)-10-24:○36-8全川崎(南甲子園、第11回神宮大会関西代表決定戦)
1940(S15)-10-29:○40-3新鉄土崎工場(神宮競技場、第11回神宮大会実業団東西対抗)
昭和15年(1940年)10月17日(木) 花園
前半8-3 (鮮鉄011) (同大100)*
後半0-5 (鮮鉄000) (同大010)*
*()内の数字はT、G、PGの順、4桁の場合は最後がDG。
主審: 北野氏
鮮鉄メンバー: FW石井、山本、高倉、小金井、立野、若松、林、HB中島、飯田、富永、TB秋本、柘植、中川、冬木、FB宏林。
昭和15年(1940年)10月20日(日) 花園
鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局) ○22-8 京都大
前半 8-5 (鮮鉄011) (京大010)*
後半14-3 (鮮鉄310) (京大001)*
*()内の数字はT、G、PGの順、4桁の場合は最後がDG。
主審: 北野氏
鮮鉄メンバー: FW高倉、山口、石井、山本、小金井、若松、林、HB中島、飯田、富永、TB秋本、柘植、中川、冬木、FB宏林。
昭和15年(1940年)10月24日(木) 花園
鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局) ○36-8 全川崎
前半 8-5 (鮮鉄110) (川崎010)*
後半28-3 (鮮鉄620) (川崎100)*
*()内の数字はT、G、PGの順、4桁の場合は最後がDG。
主審: 北野氏
昭和15年(1940年)10月29日(火) 神宮競技場
鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局) ○40-3 新鉄土崎
前半26-0 (鮮鉄240) (土崎000)*
後半14-3 (鮮鉄510) (土崎100)*
*()内の数字はT、G、PGの順、4桁の場合は最後がDG。
主審: 西村氏
鮮鉄メンバー: FW高倉、山口、石井、小金井、立野、山本、林、HB中島、飯田、富永、TB秋本、柘植、中川、冬木、FB宏林。
また昭和16年1月26日に行われた第14回全日本東西対抗(神宮)の西軍⑫柘植平内、⑮宏林栄久を送り込んでいます。
【昭和16年度(1941)】
昭和16年度(1941)の内地遠征では京都大、門鉄、全川崎を撃破。第12回神宮大会ではまたも土崎と対戦。今回は土崎に食い下がられたものの19-10で破って3連覇を達成しました。
1941(S16)-10-19:○22-14京都大学(花園)
1941(S16)-10-25:○73-10門司鉄道局(花園)
1941(S16)-10-26:○41-6全川崎(南甲子園、第12回神宮大会関西代表決定戦)
1941(S16)-10-31:○19-10新鉄土崎工場(神宮競技場、第12回神宮大会実業団東西対抗)
昭和16年(1941年)10月31日(金) 神宮競技場
鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局) ○19-10 新鉄土崎
前半11-5 (鮮鉄210) (土崎010)*
後半 8-5 (鮮鉄110) (土崎010)*
*()内の数字はT、G、PGの順、4桁の場合は最後がDG。
鮮鉄メンバー: FW石井、山口、林、立野、山本、秋子、田崎、HB中島、飯田、富永、TB秋本、宏林、北村、樋口、FB藤田。
もう単なる実業団チームではなく、関東の強豪大学を脅かす存在になっていました。
【昭和17年(1942)】
昭和17年(1942)、鮮鉄は通算10回目にして結果的に最後となる内地遠征を行いました。結果は次の通り5戦全勝。京大・同大を撃破して東京へ乗り込み、神宮大会で札鉄局・日本内燃を大差で退け、御前試合となった決勝の満州電業戦でもワンサイドゲームで4連覇を達成しました。
1942(S17)-10-17:○33-0京都大学(花園)
1942(S17)-10-25:○24-14同志社大学(花園)
昭和17年(1942年)10月17日(土) 花園
鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局) ○33-0 京都大
前半11-0 後半22-0
鮮鉄メンバー: FW石井、秋子、林利、井崎、立野、林斉、田崎、HB中島正、飯田、富永、TB秋本、宏林、北村、中島卓、FB樋口。
昭和17年(1942年)10月25日(日) 花園
前半3-6 後半21-8
鮮鉄メンバー: FW石井、秋子、林、井崎、立野、林斉、田崎、HB中島正、飯田、富永、TB秋本、宏林、北村、中島、FB樋口。
昭和17年(1942年)11月2日(月) 神宮競技場
前半18-3 後半20-6
主審: 青瀬三郎氏
鮮鉄メンバー: FW石井、山口、林利、井崎、立野、田崎、林斉、HB飯田、富永、中島、TB秋本、宏林、北村、中島、FB樋口。
鮮鉄の活動も、翌昭和18年(1943)5月に北京で行われた大陸鉄道大会で優勝しましたが、これが最後の対外試合となりました。
もし、当時の社会状況がラグビー、いやスポーツを続けられるような状態であれば、実業団の連覇をもっと伸ばしていたでしょうし、関東の強豪大学をも破っていたかもしれません。
事実、知葉友雄率いる鮮鉄は、まず関西および外地(満州・台湾など)の実業団を制して、次に関西の強豪大学を倒し、最後は関東の強豪大学を倒して全日本を制覇することでしたが、残念ながら戦争の影響で、戦うチャンスされ得られなかったことは残念でなりません。
ただ、この「鮮鉄ラグビー」の選手たちが戦後、門司鉄局・配炭公団・近鉄・トヨタに移り、その血が受け継がれ、社会人(実業団)ラグビーで輝かしい成績を残してゆきます。そして日本選手権という正式な日本一決定戦が始まり、近鉄やトヨタは、その後、強豪大学を倒して鮮鉄が成し得なかった全日本を制覇することになります。
「(鮮鉄は)西部ラグビー界の覇者であり、その実力は優に関東の早・慶・明の一角を切り崩すだけの力を備えていた。惜しいことについにその機会がなく、中原に覇を称えるの日を迎えることができなかった。しかし、僻地にあって、これだけの実力を保有していた事実は、ラグビー史上に銘記しなければならない。ことにチームの多数のメンバーが、中央に名を知らされていない無名のラガーマンであったと思うと、深い敬意を払うとともに、そのメンバーの名を残しておきたいと思う。」(「日本ラグビー物語」P145~146より)
つづく