鮮鉄ラグビー部(2)概要

 
鮮鉄ラグビー部②概要
 
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【昭和9年(1934)(続)
同志社大を破ってセンセーションを起こした鮮鉄チームは昭和9年(1934)12月25日に花園で行われた第7回全日本東西OB対抗の関西代表に選ばれ、東軍を17-16で破ります。この大会は昭和3年(1928)の第1回こそ西軍が勝っていますが、第2回から第6回まで東軍の連勝が続いていました。
 
全日本東西OB対抗
昭和9年(1934年)12月25日(火) 花園
関西OB(鮮鉄、朝鮮総督府鉄道局) ○17-16 関東OB
 前半11-3  (関西210) (関東100)*
 後半 6-13 (関西200) (関東120)*
 *()内の数字はT、G、PGの順、4桁の場合は最後がDG。
主審: 別所氏
鮮鉄メンバー: FW秋子(中津商)、杉原(鮮鉄)、林 (龍山中)、井崎(立教大)、岡田(東京大)、江原(同志社大)、知葉(明治大)、太田(京都工)、HB岩前(京都大)、丹羽(明治大)、TB小川(鮮鉄)、中島(京城商)、安田(明治大)、長沖(慶応)、FB熊谷(神戸商)。
 
年が変わって昭和10年(1935)2月に行われた第8回全日本東西対抗(神宮競技場)西軍で②秋子繁雄、⑧知葉友雄が鮮鉄から出場しました。また東軍には⑥林斉・⑨和田政雄(共に当時明治大)が出場、後に鮮鉄に加入することになります。
 
(なお、秋子繁雄氏は中津商出身で、近鉄ラグビー部(近鉄ライナーズ)に昭和38年度(1963)から昭和44年度(1969)まで在籍した名スタンドオフの豊田次朗氏のお父上です。)
 
 
昭和10年(1935)
昭和10年(1935)秋の大阪遠征では、同志社大には敗れたものの、今度は京都大学を破る快挙を演じました。
 
1935(S10)-10-17:●11-22同志社大学(花園)
1935(S10)-10-20:○23-16京都大学(花園)
 
昭和11年(1936)1月19日に行われた昭和10年度第9回全日本東西対抗(花園)西軍で①秋子繁雄、⑥太田兼治、⑦林斉が出場。また1週間後の1月26日甲子園南運動場で行われたニュージーランド学生選抜来日第1戦の全関西に①秋子繁治、⑥太田兼治が出場しています。
 
 
【昭和11年(1936)
同昭和11年(1936)3月~4月には早稲田大が満州・朝鮮遠征を行い、その最終戦で鮮鉄と対戦しました。当時既に強豪であると認知されていた鮮鉄に対して、「当時の覇者早大も、鮮鉄を警戒して米華真四郎を主将とする新チームに、新卒の野上一郎、阪口正二を補強して対戦した」(「日本ラグビー史(1964年)」P170)とのことです。結果は流石に卒業生まで加えた早稲田大が36-0と鮮鉄はノートライに抑えられました。
 
1936(S11)-04-12:●0-36早稲田大学京城運動場)
 
この年度、鮮鉄は下記のとおり全朝鮮7人制でも優勝、さらに関東州庁三十周年記念大会でも大連を破り優勝しています。
 
1936(S11)-05-10:○23-6養正専門(龍山菖球場、第2回全鮮七人制大会一般の部決勝)
1936(S11)-09-23:○43-14大連(大連、関東州庁三十周年記念大会決勝)
 
しかし、5回目の内地遠征となる10月の大阪遠征では善戦空しく同志社大・京都大の両方に敗れました。
 
1936(S11)-10-18:●13-22京都大学(花園)
1936(S11)-10-25:●13-16同志社大学(花園)
 
昭和11年(1936年)10月18日(日) 花園
結果: 鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局) ●13-22 京都大
 前半 0-11
 後半13-11
主審: 阿部吉蔵氏
鮮鉄メンバー: FW前山、秋子、石井、井崎、岡田、林、田崎、HB知葉、飯田、日置、TB秋本、中島、五十嵐、原、FB本田。
 
昭和11年(1936年)10月25日(日) 花園
鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局) ●13-16 同志社大
 前半10-3 
 後半 3-13
主審: 阿部吉蔵氏
鮮鉄メンバー: FW前山、秋子、石井、井崎、岡田、林、田崎、HB知葉、飯田、日置、TB秋本、中島、原、五十嵐、FB本田。
 
 
【昭和12年(1937) 
翌昭和12年(1937)は7月に支那事変が勃発したため、残念ながら内地遠征は中止となりました。
 
 
昭和13年(1938) 
昭和13年(1938)4月には立教大と京都大が相次いで京城に来征しましたが、どちらにも接戦の末、敗れました。
 
1938(S13)-04-10:●6-16立教大学京城
1938(S13)-04-21:●12-20京都大学京城竜山中)
 
しかし秋の大阪遠征では、ついに京都大に引き分け、同志社大には勝って、1勝1分で勝ち越しました。
 
1938(S13)-10-16:△23-23京都大学(花園)
1938(S13)-10-23:○24-18同志社大学(花園)
 
昭和13年(1938年)10月16日(日) 花園
鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局) △23-23 京都大
 前半 6-12 (鮮鉄2000) (京大1101)*
 後半17-11 (鮮鉄3110) (京大2100)*
 *()内の数字はT、G、PGの順、4桁の場合は最後がDG。
主審: 阿部吉蔵氏
 
昭和13年(1938年)10月23日(日) 花園
鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局) ○24-18 同志社大
 前半13-13 (鮮鉄120) (同大120)*
 後半11-5  (鮮鉄210) (同大010)*
 *()内の数字はT、G、PGの順、4桁の場合は最後がDG。
主審: 阿部吉蔵氏
 
昭和14年1月29日に行われた第12回全日本東西対抗(神宮)の西軍⑭で柘植平内が参加。また東軍⑩で後に入部する和田政雄(当時明治大学)が参加しています。
 
また日本ラグビー蹴球協会の初の試みで全日本代表選手が決定・表彰されることになり、昭和14年(1939)4月17日に新聞発表。これにもSOに和田政雄、CTBに柘植平内が選出されました。
 
 
昭和14年度(1939)
昭和14年度(1939)には明治大からこの和田政雄(京城商)、山本博(龍山中)、崔得兵炳(清津中)ら大型新人達が入部し、鮮鉄黄金時代が加速します。
 
まず、京城に来征してきた東京大を大差で破り、秋の大阪遠征では同志社大・京都大をも撃破。明治神宮体育大会関西代表決定戦でも全川崎を破り、ついには神宮競技場での本戦決勝でも新潟鉄道管理局土崎工場を大差で破りついに全国の実業団ナンバーワンとなりました。(土崎は秋田県ですが当時は新潟鉄道管理局管轄でした。)
 
1939(S14)-09-16:○48-0東京大学京城
1939(S14)-10-17:○62-11同志社大学(花園)
1939(S14)-10-22:○20-14京都大学(花園)
1939(S14)-10-26:○14-0全川崎(花園、第10回明治神宮大会関西代表決定戦)
1939(S14)-11-01:○68-0新鉄土崎工場(神宮競技場、第10回明治神宮大会実業団東西対抗)
 
昭和14年(1939年)10月17日(火) 花園
鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局) ○62-11 同志社大
 前半36-3 (鮮鉄260) (同大100)*
 後半26-8 (鮮鉄240) (同大110)*
 *()内の数字はT、G、PGの順、4桁の場合は最後がDG。
主審: 長沖 彰氏
鮮鉄メンバー: FW前山、秋子、高倉(京畿道立商業)、山本(明治大)、山口、林(明治大)、亀子、HB富永(福岡中)、飯田、和田(明治大)、TB秋本(京城商)、柘植(京城商)、宏林(立命館大)、冬木(京畿道立商業)、FB浜田(京畿道立商業)。
 
この同志社大との試合の新聞批評では「鮮鉄圧倒的に大勝」「和田、柘植鬼神の動き」「62-11、対同大ラグビー戦」という見出しで次のような報道がされています。
 
「鮮鉄の旺盛な闘志と得点力の凄さは全く驚嘆のほかなく、FWはルースに勿論、タイトでも同大を押へて、殊に敵ボールに対してのチャージは果敢で、同大は手のつけようがなかった。加えてバックスはSO和田が神出鬼没の活躍を見せ、これに柘植の強引な突進は無人の境を行くが如く、同大陣を圧倒し去った。同大が如何に和田、柘植に悩まされたかは、和田の4トライ、柘植の4トライを見ても判り、このほか鮮鉄のトライは何れもこの二人によりチャンスが掴まれていた。」(「和:ラグビーの旅五十年」P111より)
 
昭和14年(1939年)10月22日(日) 花園
鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局) ○20-14 京都大
 前半 0-11 (鮮鉄000) (京大012)*
 後半20-3  (鮮鉄312) (京大100)*
 *()内の数字はT、G、PGの順、4桁の場合は最後がDG。
主審: 阿部吉蔵氏
 
日時: 昭和14年(1939年)10月26日(木) 花園
結果: 鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局) ○14-0 全川崎
 前半 0-0 (鮮鉄000) (川崎000)*
 後半14-0 (鮮鉄310) (川崎000)*
 *()内の数字はT、G、PGの順、4桁の場合は最後がDG。
主審: 三濱氏
 
神宮大会後、京城に戻ってからも、京城電気・総督府本府を破り、全勝で秋のシーズンを終えました。
 
年が明けた昭和15年(1940)1月28日には当時日本最高峰の試合と言われた全日本東西対抗の西軍(当時朝鮮は西部協会の管轄)に鮮鉄チームから15名そのまま選ばれました。(実際に出場したのは①前山平太、②秋子繁雄、③高倉哲夫、④山本博、⑤山口昇、⑥太田(亀子)兼治、⑧富永武士、⑨飯田隆三、⑩和田政雄、⑪秋本正太郎、⑫柘植平内、⑮濱田克己の13名でした。)
 
如何に鮮鉄の強さが認められたかが分かります。
 
つづく