鮮鉄ラグビー部(1)概要

鮮鉄ラグビー部①概要
 
近鉄ラグビー部(近鉄ライナーズ)は「鮮鉄ラグビー部の流れをくむ」と言われます。
 
鮮鉄とは朝鮮総督府鉄道局(朝鮮鉄道)で、満州の南満工専出身者たちが中心になって昭和2年(1927)にラグビー部が創設されました。これは近鉄の前身である大軌(大阪電気軌道)の有志が高安工場でラグビーを始めたのと同じ頃です。
 
大軌ラグビー部のほうは正式な部になるのは2年後、花園ラグビー場の開設と同じ昭和4年(1929)11月ですが、鮮鉄ラグビー部は昭和2年(1927)7月に正式に部として創設。翌昭和3年(1928)には同志社大の名古屋義雄、立教大の早田忠雄が、昭和4年(1929)には同志社大の上野謙吉など、当時のラグビー有力大学の選手たちが入局。そして昭和5年に(1930)は日本代表としてカナダに遠征し全試合に出場した知葉友雄が加入と、有力選手が加入して行き強化されてゆきました。
 
これは全国鉄ラグビーの会長であり鮮鉄の局長だった吉田浩氏が無類のラグビーファンで有力大学出身の選手を引き入れたとのことです。 
 
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監督は、当初は前田春蔵(南満工専出)が務めていましたが、昭和9年(1934)からは知葉友雄が監督兼主将となりました。この頃既に外地(朝鮮・満州など)では敵無しの状態で、冬場には氷点下になるとも言われる京城で毎日20kmを走るという猛練習で内地の有力大学を倒すことを目標に鍛錬を積みました。
 
ご存知の方も多いと思いますが、日本ラグビー界では、その歴史の始まりから日本選手権の始まる昭和30年代くらいまで大学の現役チームの方が強く、たとえ大学時代の有名選手が卒業後にOBチームやクラブチーム、実業団チームでプレーしても練習量・練習環境で社会人はなかなか強くなれませんでした。特に戦前はそういった受け皿も少なく、社会人チームが有力大学チームに勝つのは至難の技でした。
 
鮮鉄はそのような有力大学と試合するために、大学チームの来征のために鉄道無料乗車券を大学チームに配布するなどして招待しました。
 
 
記録では昭和4年(1929)立教大学、昭和7年(1932)明治大学が遠征してきて戦いましたが、鮮鉄はとても歯が立たず、それぞれ0-49、3-55と大敗しています。
 
1930(S05)-04-03:●0-49立教大(京城)
1932(S07)-04-01:●3-55明治大(京城運動場)
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鮮鉄自身も遠征して強化を図り、昭和6年(1931)には満州、昭和7年(1932)には九州、昭和8年(1933)には大阪へ遠征しています。
 
昭和6年、第7回朝鮮神宮体育大会ラグビー一般の部決勝で、京城電気を37-0で下して優勝。翌年の第8回大会決勝でも京城電気を33-18で下して優勝します。
 
 
【昭和7年(1932)
初の内地(日本本土)遠征となった昭和7年
(1932)の九州遠征では○55-8福岡クラブ(全福岡)、○24-5九州大、○25-3門司鉄道局と全勝。
 
1932(S07)-11-23:○55-8福岡クラブ(九州大工学部)
1932(S07)-11-25:○24-5九州大(九州大工学部)
1932(S07)-11-27:○25-3門司鉄道局(春日原
 
 
昭和8年(1933)
昭和8年(1933)4月に同志社大京城に遠征、鮮鉄は6-33で敗れましたが同年秋の鮮鉄の内地遠征の成績は次の通りで、全明治大には歯が立ちませんでしたが、同志社大には6点差で惜敗、大鉄局と立教大OBには勝っています。
 
1933(S08)-04-03:●6-33同志社大京城
1933(S08)-10-25:○39-3大阪鉄道局(花園)
1933(S08)-10-28:●15-21同志社大(花園)
1933(S08)-11-01:●6-33全明治大(明治大和泉)
1933(S08)-11-04:○22-12立教大OB(立教大池袋)
 
同志社大戦のスコアは「日比野弘の日本ラグビー全史」および「同志社ラグビー七十年史」では上記の通り「鮮鉄●15-21同志社大」となっていますが、ラグビーマガジン1980年8月号P157「無敵を誇った朝鮮鉄道ラグビー」では、この試合は3-3の引分けで当時実業団初の快挙だった、となっています。私の想像ではこの引分けた試合は正規の定期戦(対抗戦)ではなく滞在中に行った練習試合ではないかと想像しています。
 
昭和8年(1933年)10月28日(土)花園
鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局) ●15-21 同志社大
鮮鉄メンバー: FW秋子、杉原、林、岡田、久留、前山、太田、HB杉本、安田、日置、TB中島、上野、五十嵐、全、FB斉藤。
 
当時関西には同志社大に匹敵する強豪実業団が少なかったこともあり、この年以後、同志社大と鮮鉄との交流が続き、支那事変が勃発し遠征を中止した昭和12年以外は昭和17年まで鮮鉄が秋に花園に来征しました。
 
 
昭和9年(1934)
昭和9年(1934)は知葉友雄が監督に就任した年であり、京城商より柘植平内が入部しました。(同じ京城商の和田政雄は明治大に進学、昭和14年の卒業後に鮮鉄加入することになります。)
 
この年は第10回朝鮮神宮奉賛体育大会ラグビー一般の部決勝で、京城電気を38-15で下して優勝。また10月の第3回内地遠征では同志社大に勝ち、京都大には大接戦というセンセーションを引き起こしました。
 
1934(S09)-10-??:○38-15京城電気(第10回朝鮮神宮奉賛体育大会ラグビー一般の部決勝)
1934(S09)-10-17:○15-6同志社大(花園)
1934(S09)-10-21:●15-18京都大(花園)
1934(S09)-10-24:○14-9門司鉄道局(小倉到津)
 
特に同志社大を破った試合では大毎(大阪毎日新聞)の中出記者が「平静をかこつ関西ラグビー界は突如として襲った朝鮮鉄道チームのため完全に荒らされた。昨日の覇者同大敗れるに及んで、京大の一戦に送った拍手の大であったことは如何に関西のファンが彼等の遠征によって驚かされたかを如実に物語っていた。(中略)同大対朝鮮鉄道局の一戦は早くもその夕、ファンの口から口へ最大級の驚きを以って伝え広まった。」(「同志社ラグビー七十年史」P76より)と報じています。
 
昭和9年(1934年)10月17日(水) 花園
鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局) ○15-6 同志社大
 前半9-3 (鮮鉄300) (同大001)*
 後半6-3 (鮮鉄200) (同大100)*
 *()内の数字はT、G、PGの順、4桁の場合は最後がDG。
鮮鉄メンバー: FW前山(佐賀中)、秋子(中津商)、林 (龍山中)、井崎(立教大)、岡田(東京大)、太田(京都工)、知葉(明治大)、HB井上(善隣中)、飯田(龍山中)、日置(龍山中)、TB柘植(京城商)、中島(京城商)、安田(明治大)、五十嵐(早稲田大)、FB斉藤(大倉高商)。
 
昭和9年(1934年)10月21日(日) 花園
鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局) ●15-18 京都大
 前半 5-13 (鮮鉄010) (京大120)*
 後半10-5  (鮮鉄020) (京大010)*
 *()内の数字はT、G、PGの順、4桁の場合は最後がDG。
鮮鉄メンバー: FW前山(佐賀中)、秋子(中津商)、林 (龍山中)、井崎(立教大)、岡田(東京大)、太田(京都工)、知葉(明治大)、HB井上(善隣中)、飯田(龍山中)、日置(龍山中)、TB小川、中島(京城商)、安田(明治大)、五十嵐(早稲田大)、FB斉藤(大倉高商)。
 
また、大阪からの帰路、九州小倉の到津グラウンドでも門司鉄を14-9で撃破、この試合は北九州最初の有料試合でした。
 
つづく
 
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