上坂桂造選手

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上坂桂造(こうさか・けいぞう)選手。近鉄ラグビー部(近鉄ライナーズ)のみならず日本ラグビーのオールドファンの中では覚えておられる方が多いと思います。
 
昭和20年代後半から昭和30年代にかけて同志社大学近鉄・全日本で活躍したSO(スタンドオフ)です。
 
特に近鉄では当初は同大の先輩のSH門戸良太郎選手、後には日本大学出身の福田広(福田廣)選手と名ハーフ団を組み、近鉄の黄金時代を支えました。
 
当時はFWでも身長160cm代、体重60kg代の選手が居た時代に、身長178cm、75kgの大型のスタンドオフで、更にSHからのパスのキャッチングが上手く、スクラムの後方深く陣取り、門戸・福田の名SHからの正確なロングパスを受けて多彩な攻撃を組み立てました。キックもランも多彩なバリエーションがありました。
 
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(後列右端が上坂選手)
 
パスにしても、手が大きかったのでオフロードパス(当時はそのような用語はありませんでしたが)やアメリカンフットボールのような相手の頭上からのスナップスロー、また飛ばしパスなど状況に応じて観衆の度肝を抜くプレーもありました。
 
また同大時代からコンビを組んだ門戸選手とのブラインド攻撃にも定評がありました。
 
■経歴
上坂桂造選手は1931年(昭和6年)2月25日、京都生まれ。京都・堀川高校から同志社大学に入学。高校時代はラグビー部でしたが当時の堀川高校ではバスケットボールが盛んで上坂選手もバスケットをかじっており、この経験がラグビーでのキャッチングやパスにも生かされることになります。
 
1950年(昭和25年)に同大に入学、1年の正月の関東の大学との定期戦からSOでレギュラーを獲得します。それまでのポジションはCTBやWTBでしたが、当時、同大を指導していた星名秦氏に突然SOに指名され、以降SOに定着し、めきめきと頭角を現します。1学年上に岡仁詩氏が居て本当はSOをやりたかったが上坂選手が来て諦めたそうです。
 
同大では2年までは先輩でSH(スクラムハーフ)の門戸良太郎選手とハーフ団を組み、このコンビは後年近鉄で復活することになります。ただこの時期は関西の大学では関学が強く、1950年度(昭和25年度、上坂選手1年時)同大は関西対抗戦でも立命館大に勝ったのみで関学・京大に破れ3位。関東との東西対抗でも早大・明大・慶大にも敗れています。翌年の2年時も関西で立命・京大には勝ったものの関学に破れ2位、更に東西対抗でも日大・立教には勝ったもののやはり早大・明大・慶大には敗れています。
 
1952年度(昭和27年度、上坂選手3年時)は関西で全勝し8年ぶりの優勝を飾ります。日本一決定戦となった早大との定期戦では惜しくも6-8で敗れましたが、関東優勝の早大を苦しめました。
 
またこの年の9月に来日したオックスフォード大学と対戦した全関西学生(関学・京大・同大のOBを含めた連合軍)にすでに近鉄に居た門戸選手とともに選ばれています。更に翌年1月の第7回東西学生対抗の関西学生に同大の同僚SH大塚満彌選手とともに選出、2月に行われた第6回三地域対抗の全関西として門戸選手とともハーフ団を組んでおり、既にこの当時「関西に門戸上坂の名コンビあり!」と知られました。
 
1953年度(昭和28年度、上坂選手4年時)4月には極東英連邦軍戦の全日本代表に初めて選出・出場しました。余談ですがこの試合は約30年後に制定された「キャップ制度」でキャップ対象試合から外されされましたが、当時「全日本」(現在では「日本代表」)として桜のジャージを着て戦った選手の気持ちを思うとおかしな決定だと思います。
 
同年9月にはケンブリッジ大が来日し再び桜のジャージで対戦しています。同大でコンビを組むSH大塚満彌選手と揃って出場し、この試合が後年制定されたキャップ制度により初キャップとなります。
 
この年度でも同大は関西で全勝し2連覇。再び日本一決定戦となった早大との定期戦ではまたも敗れました
 
また翌年1月の第8回東西学生対抗の関西学生にも選出、翌2~3月に行われた第7回三地域対抗の全関西にも門戸とともに選出されて2試合とも出場。この大会で全関西は全関東・全九州を破り、三地域対抗になってから初めての優勝を飾ります。
 
1954年(昭和29年)に大学を卒業し、先輩である門戸選手の誘いで近鉄に入社。この年には他にも森田至選手(FW、早稲田大)、蓬田和志選手(FW、天理高)、増田規智雄選手(角田規智雄、FW、天理高)といった有望な新人が加入しています。
 
近鉄はこの前シーズンに静岡草薙での第6回全国社会人大会決勝で九州電力と引分け初の栄冠をモノにしていましたが、これら新人の加入でいよいよ近鉄が絶頂期に近づいてゆきます。
 
入社すぐの1954年度(昭和29年度)のシーズンは第7回全国社会人大会(松山)では1回戦で4人の負傷者が出たため、ベストメンバーが組めなかった準決勝で伏兵の大映に敗退。翌1955年度(昭和30年度)の第8回大会(花園)では順当に勝ち進み決勝で八幡製鐵と対戦。第4回大会決勝の再現となりましたが5-24で惜敗。
 
この間も第8回・第9回三地域対抗の全関西や、1956年(昭和31年)2~3月に来日した全豪州学生軍戦の全関西や全同大にも選出されました。こういった選抜チームで早大出で後年関西で名レフリーとなる下平嘉昭選手や、関学から大阪府警に入る斉藤文男(堀川文男)選手といった名SHたちともコンビを組みます。
 
1956年度(昭和31年度)は秋田工高・日大で日本一を経験し何度も全関東に選ばれていたSH、福田広選手が入社してきました。門戸選手はFBまたはTBに移動して、上坂選手にとって新しい時代となる「福田・上坂」コンビが始まります。さらに近鉄FW陣がさらに強化されてゆきFWで押してHBでパントを上げさらにそれをFWでボールを奪取する「強力FWと福田上坂の近鉄サーカス」で一世を風靡します。
 
この年度は第9回全国社会人大会の準決勝で八幡製鐵と当り、9-0のシャットアウト勝ち、決勝でも九州電力を破り単独優勝を飾りました。この大会は1回戦から決勝まで全4試合を無失点に押さえた優勝で、この記録は以後の社会人大会・トップリーグプレーオフ・複数試合になった日本選手権でも達成されることは無かった記録です。
 
10回三地域対抗の全関西も「福田・上坂」のコンビで出場しています。
 
また翌年1957年度(昭和32年度)、第10回大会でも八幡製鐵京都市役所に引分け抽選負けして、八幡とは対戦が無かったものの、その京都市役所を決勝で破って2連覇を達成しました。
 
その大会後の第11回三地域対抗では全関西の中心選手であった上坂選手が仕事のため参加できませんでした。それだけが原因ではないでしょうが、全関西は2戦全敗。その直後にオールブラックスが来日。全日本と3戦行いましたが、上坂選手は最後の1試合にしか選出されませんでした。
 
これについて「全国社会人はじめ多くの試合で上坂が全日本の主軸選手たるべきことはハッキリわかっていたはずだ、三地域対抗不出場がマイナスの資料なったかも知れないが、上坂選手が会社の仕事で出張していたらしい。会社で仕事らしい仕事もせず、会社の看板となるスポーツだけをしているある種のスポーツ選手が多い現在、上坂選手の場合はアマチュア選手としては当然の動きをしていたわけでむしろ珍重すべきではなかったろうか。」(日本協会機関誌RUGBY FOOTBALL VOL7-6、「関西のラグビー界 谷口勝久」という意見も出されたくらいでした。
 
なお、後年のインタビューで上坂選手は、印象に残る国際試合として、このオールブラックス戦を挙げています。なおこのオールブラックス戦では前半なかばに肩を骨折し途中交代しました。
 
さて翌1958年度(昭和33年度)のシーズンから関西社会人リーグがスタートし、近鉄の連覇が始まります。関西社会人リーグはもちろん全勝、関大・立命関学・天理・同大をも蹴散らし、第11回全国社会人大会でも難なく決勝に進出しましたが、3連覇を賭けて望んだ決勝では八幡に0-9で敗れました。前年・前々年と決勝にも進めなかった八幡が若返りに成功しての優勝でした。上坂選手の対面は尾郷直司選手(八幡高出)でした。
 
12回三地域対抗では再び大阪府警の斉藤文男(堀川文男)選手とハーフ団を組んで出場。
 
またこの頃に全カナダが来日して日本を転戦しました。
社会人単独チームとしては八幡と近鉄が全カナダに挑み、八幡は引き分けましたが近鉄は見事に勝利を収めます。これは全カナダにとって全日本との2試合を含めた全7試合のうち唯一の敗戦です。
 
この試合の内容は本ブログの記事に詳細メンバーとともに明記していますが、近鉄15人のうちで上坂選手の178cm、75kgというサイズは、バックローセンター(現在のナンバーエイト)の向出博之選手の178cm、70kgとともに群を抜いています。
 
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1959年9月10日瑞穂で行われた関東関西連合 対 オックスフォード大ケンブリッジ大連合軍の試合にも「福田・上坂」コンビで出場。
 
上坂選手が主将を務めた1959年度(昭和34年度)も大学との対抗戦、関西社会人リーグ、そして第12回全国大会準決勝までは全勝でしたが、決勝で再び八幡に敗れます。
 
シーズン最後の第13回三地域対抗の全関西の2試合にも選出されます。
 
主将2年目の1960年度(昭和35年度)のシーズン上坂選手は体力の衰えから当初FBに回りました。しかし、そうするとチームの動きが悪くなり、同大や伊丹自衛隊に敗れます。そこで再びSOに復帰しチームも調子を取り戻し、関西リーグの最終戦大阪府警戦に快勝して、第13回全国大会でも決勝に進出します。しかしここで、またも八幡に0-3の惜敗、3連覇を許します。
 
また第14回三地域対抗の全関西の2試合にも選出されますが、結果的にはこれが最後の三地域対抗戦となります。
 
1961年度(昭和36年度)からコーチをとなり、後身に出場機会を譲ります。以後、1963年度(昭和38年度)のシーズンまでコーチを務めてチームを離れます。(なおコーチ最後の年にはスタンドオフの後継者、豊田次朗選手が入部してきます。)その後は近鉄バファローズのフロントとして活躍されました。
 
上坂選手を知る近鉄ライナーズのファンである知人は、現在でも「上坂みたいなスタンドオフが居れば・・・」「上坂みたいにゲームメイクのできる選手が・・・」と言います。
 
それだけ当時のラグビーファンには強烈な印象を与えた選手でした。